「今では想像もできないことだろうが、かつて日本が世界の卓球界を席巻したことがあった。
1950年代の世界選手権での団体5連覇を皮切りに、60年代にも男女シングルス、ダブルスでも世界チャンピオンを輩出した。まさに、日本卓球界は黄金時代を迎えていたのだ。
だが、陰りが見え始めたのは、1970年代に入ってからだった。それまでも世界の卓球界をリードしてきたのは日本、中国をはじめとするアジア諸国だったが、中国の力が圧倒的に強まった70年代以降、伝統的な強豪のスウェーデン、ドイツのヨーロッパ勢、新鋭・韓国の台頭ともあいまって、世界の中での日本の地位は凋落の一途をたどったのだ。
私らの業界が活況を呈していたのは、その日本卓球が世界の強豪として君臨していたその時期と見事に一致しているんだよ。
さて、あんたの知りたがっている“幻の4つ星”についてだが…ピンポン玉っていうのは、セルロイドまたはプラスティック製で、直径が40mm、重さが2.7gと、ルールで決まってることは知っているな。また、ピンポン玉は、どの程度球に近いかで等級が付けられている。これは、ボールを坂路に転がして判断するんだが、完全な球ならば坂路を真直ぐ転がり、少しでも歪みがあれば曲がってしまうというわけだ。
しかし、ここが肝腎なんだが、完全な球形を作るというのは存外難しいものだ。たとえ機械を使おうとも、とても難しい。知っての通り、ピンポン玉を作る工程っていうのは、ざっと10工程、細かいことを言うと40にも上る作業工程が必要なデリケートなものなんだ。
通常は約半年をかけて、これだけの工程をクリアして1個のピンポン玉ができあがるのだが、私らがやっていたのは、これとは全く違う方法――しかも製品の仕上がりは機械を使う方法に比べ、はるかに精巧なものだった。
どんな方法かって?よろしい。今からそれを見せてあげよう。ただし、これをやるには私は年をとりすぎている。チャンスは1回きりだと思ってほしい。成功するかどうかはわからんが、とにかくやってみよう」
老人は、一旦奥に入ると、水の入ったポリバケツを手に提げ、卓上カセットコンロとアルミ鍋を小脇に抱えて出てきました。それから鍋に水を入れコンロにかけると、大量のオレンジ色の欠片を入れたビーカーを鍋の中に入れました。
火加減を調節していると、鍋の中の水は沸騰し、それに従ってビーカーの中の欠片も次第に溶けてドロドロになっていきました。
それを見届けてから、老人はおもむろにメガネを外し、上着をとり、シャツを脱ぎ捨てて上半身裸になりました。意外なほどに筋肉質の引き締まった体です。その肌が紅潮し、大粒の汗が噴き出して身体を伝って流れ落ちていきます。心なしか緊張した面持ちです。老人は大きく1つ深呼吸をすると、「これはセルロイドだ。セルロイドは摂氏80度前後で融解する。この溶けてドロドロになったセルロイドを…」
といいざま、老人はビーカーを取り上げて、まるで青汁でも飲むかのように、眉間にしわを寄せながら、一気に飲み下しました。
そして一旦上を向くと上下に二、三回飛び跳ねた後、今度は腰に手を当てて、フラダンスを踊るように、ゆっくりと腰を揺すりました。数回腰を揺すった後で、今度は両手を組んでみぞおちに当て、上体を前後に揺すったり、屈伸したりを繰り返し、背を屈めるようにして聞くに堪えない喘ぎ声を上げて、えずき始めました。
「おぇ、おぇ、げ~っ」
何度か喘ぎ声を上げた末、最後に老人は大きく前屈みになると、口からオレンジ色の物体をポリバケツの中に吐き出しました。
慌しくバケツに駆け寄って見ると、そこにはオレンジ色のピンポン玉が1個、胃液に塗れて、水にふわふわ浮かびながら、美しいフォルムを現わしていました。
ピンポン玉を口から吐き出した直後、老人はその場にうずくまって、激しく咳き込みました。私が思わず駆け寄り介抱すると、老人は苦しい息遣いの下から、
「こんなことを長年続けていると、ひどく胃を傷めてしまう。私の仲間たちはね、皆最後には血を吐いて、ばたばた倒れていったんだよ。仕事で体を傷めた上に、皆浴びるほど酒を飲んでいた。景気のいい時代だったからね。私がこの年まで達者でいられたのは、酒を飲まなかったおかげだろうと思っているよ。」
と苦笑いをしながら話してくれました。
できたてのピンポン玉を斜めに置いた板の上から転がすと、全く曲がることなく、真直ぐに転がりました。まさに神業。“幻の4つ星”は実在したのです。
ピンポン玉作りの実演をして見せてくれた後、老人は近所にある卓球場に案内してくれました。そこはX商会直営の卓球場だそうで、たくさんの小中学生が練習していました。
「ここはね、私が道楽でやっている卓球場でね、『こだま卓球クラブ』って言うんだけど、卓球のラリーを、打てば返る、呼べば答えるってことで、“こだま”に喩えて命名したんですよ」
と、名前の由来を嬉しそうに説明してくれました。
「どうして、そんなに優れた“幻の4つ星”が、廃れてしまったんでしょうか」
「結局、球筋が良過ぎたっていうことなのかねぇ。大陸の選手たちっていうのは、やっぱりパワーとスピードを追求するわけだよ。ところが日本人選手の本領は、どんなスポーツでもそうだけど、器用さでしょ。所詮パワーでは敵わないわけだからね。日本人選手の活躍に対するやっかみもあったかもしれんし、ミリ単位の微妙なボールコントロールができるピンポン玉なんて必要ないってことで、次第に国際大会からは締め出されちまったわけだな。それと、さっきも言ったように後継者不足。職人が無茶な生活の末にバタバタ倒れちまったんじゃあ、じきに先が見えちゃうからね」
老人は薄くなった頭を撫で回しながら話してくれました。一瞬、老人の表情に諦めにも似た淋しげな陰がよぎりました。
「でもね、この子らが大きくなった頃、ひょっとすると、また日本は黄金時代を迎えるような気がするんだよ。それまでは、死ねないね」
老人が自分自身に言い聞かせるように、頷きながら断固とした口調で言いました。ピンポン玉を打つ乾いた音がひっきりなしに辺りに響いています。少年たちは、ただ一心不乱にピンポン玉を目で追い、前後左右に跳躍しながらラケットを振り続けています。老人は、そんな少年たちを眼を細めて眺めていました。
そんな少年たちと老人の姿に心温まるものを感じ、卓球王国日本の復活を確信して、私はその町を後にしたのでした。(この項終わり)
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