皆様、お元気でお過ごしでしょうか?実に約10ヵ月ぶりのご無沙汰です。
何はさておき、この間の私の消息についてご報告申し上げておきましょう。「ピンポン玉の作り方」を調査するために、当日の予定をすべて一方的にキャンセルした上に、強引に1週間の連続休暇を取得し姿をくらますという暴挙(と周囲の無知で無理解な人々はそう言います)に出た私は、その後、当然のごとく会社の上層部からの譴責と周囲の冷たい視線にさらされなければなりませんでした。
1週間ぶりに出社した私に、同僚たちは口もきいてくれず、私の顔を遠くから盗み見てはヒソヒソ話をするばかり(これは正直こたえました)です。一応神妙な顔をして上司の説教を聞いていた私でしたが、そのうち処分が決まり、会社は私に対して10%の減俸3ヶ月(ま、こんなものは私にとって屁の河童ですが)と、「省エネ対策室」への転属を命じました。省エネ対策室!いかにもヒマそうな部署ではありませんか。思いがけず軽い処分ですんだ上に、見るからにヒマそうな部署への転属までオマケについてきたのです。
「これからは、あり余る時間をどう使ってやろうか」
私は内心小躍りしてしまいました。今まで営業の第一線で多忙な日々を送っていた私が、このような閑職に配属になったことは、ある意味“懲罰的人事”だと普通の人なら考えることでしょう。しかし、私にとって、“閑職”という言葉には、えもいわれぬ蠱惑的な響きがあったのも事実です。なぜなら、これで誰はばかることなく、知的好奇心を満足させるために時間を使うことができるのですから。
しかし、世の中そんなに甘いものではありません。この「省エネ対策室」が、別名「お仕置き部屋」と呼ばれていることを知ったのは、不覚にも、配属が決まって、社内のあいさつ回りを始めてからのことでした。
人事課から辞令を受け取り、営業、資材、総務といった各部署をあいさつに回っていると、どこへ行っても各課の課長クラスの人から、
「へーっ、省エネ対策室だって?それはご苦労様だね。まぁ、体に気をつけて、がんばってもらいたいもんだね」
と、判で押したような激励(と言うより同情?)の言葉が返ってくるのです。
妙な雰囲気に首をひねりながら廊下を歩いていると、突然腕をつかまれ湯沸し場に引っ張り込まれました。あわてて相手の顔を見ると、同期入社のM田でした。M田は押し殺した声で、しかし語気鋭く、
「オマエ、“省エネ対策室”に配属されたんだってな。能天気な顔して、いったいどんなとこか知ってんのか?」
と聞いてきました。
「どんなとこって…社内の省エネっていうか、電気やガスを節約したり、コピー用紙を節約したりとか、そんなんだろ?」
「それは総務課の“エコ推進室”!オマエが行くのは管財課の“省エネ対策室”!まったく別の部署なんだよ。辞令をよーっく見てみろ!」
言われて手元の辞令をよく見てみると、確かに「管財課、省エネ対策室勤務を命ずる」と書いてあります。
「えっ?これって、どういうこと?」
「省エネ対策室っていうのはな、別名“お仕置き部屋”。遅刻、無断欠勤、怠業といった勤務態度の悪い社員、さらに酒やギャンブルへの極度の依存、不倫行為等の素行の悪い社員らを無期限で配属して、矯正するための部署だ」
M田がさらに一段声のトーンを落として言いました。
「お・し・お・き・べ・や?」
「そう、お仕置き部屋。詳しい内容はオレにもよくわからん。それは、これから自分の目で確かめてみるんだな。今となってはオレにはどうしてやることもできない。とにかく、逆らうな。流れに身を任せて、実直に勤め上げるしかない。そうすれば、いずれ呼び戻してもらえることもあるだろう。何があっても気を落とさずに頑張れよ。じゃあ、達者でな」
それだけを早口で言って、私の肩をポンと叩くと、M田は早足で立ち去っていきました。
「おしおき…べや…」
その言葉を反芻しながら、遠ざかっていくM田の背中を見つめて、私は呆然と立ち尽くしていました。(次回へ続く)
2008年8月30日土曜日
2007年10月28日日曜日
驚異の産業技術 ②ピンポン玉の作り方 その3
「今では想像もできないことだろうが、かつて日本が世界の卓球界を席巻したことがあった。
1950年代の世界選手権での団体5連覇を皮切りに、60年代にも男女シングルス、ダブルスでも世界チャンピオンを輩出した。まさに、日本卓球界は黄金時代を迎えていたのだ。
だが、陰りが見え始めたのは、1970年代に入ってからだった。それまでも世界の卓球界をリードしてきたのは日本、中国をはじめとするアジア諸国だったが、中国の力が圧倒的に強まった70年代以降、伝統的な強豪のスウェーデン、ドイツのヨーロッパ勢、新鋭・韓国の台頭ともあいまって、世界の中での日本の地位は凋落の一途をたどったのだ。
私らの業界が活況を呈していたのは、その日本卓球が世界の強豪として君臨していたその時期と見事に一致しているんだよ。
さて、あんたの知りたがっている“幻の4つ星”についてだが…ピンポン玉っていうのは、セルロイドまたはプラスティック製で、直径が40mm、重さが2.7gと、ルールで決まってることは知っているな。また、ピンポン玉は、どの程度球に近いかで等級が付けられている。これは、ボールを坂路に転がして判断するんだが、完全な球ならば坂路を真直ぐ転がり、少しでも歪みがあれば曲がってしまうというわけだ。
しかし、ここが肝腎なんだが、完全な球形を作るというのは存外難しいものだ。たとえ機械を使おうとも、とても難しい。知っての通り、ピンポン玉を作る工程っていうのは、ざっと10工程、細かいことを言うと40にも上る作業工程が必要なデリケートなものなんだ。
通常は約半年をかけて、これだけの工程をクリアして1個のピンポン玉ができあがるのだが、私らがやっていたのは、これとは全く違う方法――しかも製品の仕上がりは機械を使う方法に比べ、はるかに精巧なものだった。
どんな方法かって?よろしい。今からそれを見せてあげよう。ただし、これをやるには私は年をとりすぎている。チャンスは1回きりだと思ってほしい。成功するかどうかはわからんが、とにかくやってみよう」
老人は、一旦奥に入ると、水の入ったポリバケツを手に提げ、卓上カセットコンロとアルミ鍋を小脇に抱えて出てきました。それから鍋に水を入れコンロにかけると、大量のオレンジ色の欠片を入れたビーカーを鍋の中に入れました。
火加減を調節していると、鍋の中の水は沸騰し、それに従ってビーカーの中の欠片も次第に溶けてドロドロになっていきました。
それを見届けてから、老人はおもむろにメガネを外し、上着をとり、シャツを脱ぎ捨てて上半身裸になりました。意外なほどに筋肉質の引き締まった体です。その肌が紅潮し、大粒の汗が噴き出して身体を伝って流れ落ちていきます。心なしか緊張した面持ちです。老人は大きく1つ深呼吸をすると、「これはセルロイドだ。セルロイドは摂氏80度前後で融解する。この溶けてドロドロになったセルロイドを…」
といいざま、老人はビーカーを取り上げて、まるで青汁でも飲むかのように、眉間にしわを寄せながら、一気に飲み下しました。
そして一旦上を向くと上下に二、三回飛び跳ねた後、今度は腰に手を当てて、フラダンスを踊るように、ゆっくりと腰を揺すりました。数回腰を揺すった後で、今度は両手を組んでみぞおちに当て、上体を前後に揺すったり、屈伸したりを繰り返し、背を屈めるようにして聞くに堪えない喘ぎ声を上げて、えずき始めました。
「おぇ、おぇ、げ~っ」
何度か喘ぎ声を上げた末、最後に老人は大きく前屈みになると、口からオレンジ色の物体をポリバケツの中に吐き出しました。
慌しくバケツに駆け寄って見ると、そこにはオレンジ色のピンポン玉が1個、胃液に塗れて、水にふわふわ浮かびながら、美しいフォルムを現わしていました。
ピンポン玉を口から吐き出した直後、老人はその場にうずくまって、激しく咳き込みました。私が思わず駆け寄り介抱すると、老人は苦しい息遣いの下から、
「こんなことを長年続けていると、ひどく胃を傷めてしまう。私の仲間たちはね、皆最後には血を吐いて、ばたばた倒れていったんだよ。仕事で体を傷めた上に、皆浴びるほど酒を飲んでいた。景気のいい時代だったからね。私がこの年まで達者でいられたのは、酒を飲まなかったおかげだろうと思っているよ。」
と苦笑いをしながら話してくれました。
できたてのピンポン玉を斜めに置いた板の上から転がすと、全く曲がることなく、真直ぐに転がりました。まさに神業。“幻の4つ星”は実在したのです。
ピンポン玉作りの実演をして見せてくれた後、老人は近所にある卓球場に案内してくれました。そこはX商会直営の卓球場だそうで、たくさんの小中学生が練習していました。
「ここはね、私が道楽でやっている卓球場でね、『こだま卓球クラブ』って言うんだけど、卓球のラリーを、打てば返る、呼べば答えるってことで、“こだま”に喩えて命名したんですよ」
と、名前の由来を嬉しそうに説明してくれました。
「どうして、そんなに優れた“幻の4つ星”が、廃れてしまったんでしょうか」
「結局、球筋が良過ぎたっていうことなのかねぇ。大陸の選手たちっていうのは、やっぱりパワーとスピードを追求するわけだよ。ところが日本人選手の本領は、どんなスポーツでもそうだけど、器用さでしょ。所詮パワーでは敵わないわけだからね。日本人選手の活躍に対するやっかみもあったかもしれんし、ミリ単位の微妙なボールコントロールができるピンポン玉なんて必要ないってことで、次第に国際大会からは締め出されちまったわけだな。それと、さっきも言ったように後継者不足。職人が無茶な生活の末にバタバタ倒れちまったんじゃあ、じきに先が見えちゃうからね」
老人は薄くなった頭を撫で回しながら話してくれました。一瞬、老人の表情に諦めにも似た淋しげな陰がよぎりました。
「でもね、この子らが大きくなった頃、ひょっとすると、また日本は黄金時代を迎えるような気がするんだよ。それまでは、死ねないね」
老人が自分自身に言い聞かせるように、頷きながら断固とした口調で言いました。ピンポン玉を打つ乾いた音がひっきりなしに辺りに響いています。少年たちは、ただ一心不乱にピンポン玉を目で追い、前後左右に跳躍しながらラケットを振り続けています。老人は、そんな少年たちを眼を細めて眺めていました。
そんな少年たちと老人の姿に心温まるものを感じ、卓球王国日本の復活を確信して、私はその町を後にしたのでした。(この項終わり)
1950年代の世界選手権での団体5連覇を皮切りに、60年代にも男女シングルス、ダブルスでも世界チャンピオンを輩出した。まさに、日本卓球界は黄金時代を迎えていたのだ。
だが、陰りが見え始めたのは、1970年代に入ってからだった。それまでも世界の卓球界をリードしてきたのは日本、中国をはじめとするアジア諸国だったが、中国の力が圧倒的に強まった70年代以降、伝統的な強豪のスウェーデン、ドイツのヨーロッパ勢、新鋭・韓国の台頭ともあいまって、世界の中での日本の地位は凋落の一途をたどったのだ。
私らの業界が活況を呈していたのは、その日本卓球が世界の強豪として君臨していたその時期と見事に一致しているんだよ。
さて、あんたの知りたがっている“幻の4つ星”についてだが…ピンポン玉っていうのは、セルロイドまたはプラスティック製で、直径が40mm、重さが2.7gと、ルールで決まってることは知っているな。また、ピンポン玉は、どの程度球に近いかで等級が付けられている。これは、ボールを坂路に転がして判断するんだが、完全な球ならば坂路を真直ぐ転がり、少しでも歪みがあれば曲がってしまうというわけだ。
しかし、ここが肝腎なんだが、完全な球形を作るというのは存外難しいものだ。たとえ機械を使おうとも、とても難しい。知っての通り、ピンポン玉を作る工程っていうのは、ざっと10工程、細かいことを言うと40にも上る作業工程が必要なデリケートなものなんだ。
通常は約半年をかけて、これだけの工程をクリアして1個のピンポン玉ができあがるのだが、私らがやっていたのは、これとは全く違う方法――しかも製品の仕上がりは機械を使う方法に比べ、はるかに精巧なものだった。
どんな方法かって?よろしい。今からそれを見せてあげよう。ただし、これをやるには私は年をとりすぎている。チャンスは1回きりだと思ってほしい。成功するかどうかはわからんが、とにかくやってみよう」
老人は、一旦奥に入ると、水の入ったポリバケツを手に提げ、卓上カセットコンロとアルミ鍋を小脇に抱えて出てきました。それから鍋に水を入れコンロにかけると、大量のオレンジ色の欠片を入れたビーカーを鍋の中に入れました。
火加減を調節していると、鍋の中の水は沸騰し、それに従ってビーカーの中の欠片も次第に溶けてドロドロになっていきました。
それを見届けてから、老人はおもむろにメガネを外し、上着をとり、シャツを脱ぎ捨てて上半身裸になりました。意外なほどに筋肉質の引き締まった体です。その肌が紅潮し、大粒の汗が噴き出して身体を伝って流れ落ちていきます。心なしか緊張した面持ちです。老人は大きく1つ深呼吸をすると、「これはセルロイドだ。セルロイドは摂氏80度前後で融解する。この溶けてドロドロになったセルロイドを…」
といいざま、老人はビーカーを取り上げて、まるで青汁でも飲むかのように、眉間にしわを寄せながら、一気に飲み下しました。
そして一旦上を向くと上下に二、三回飛び跳ねた後、今度は腰に手を当てて、フラダンスを踊るように、ゆっくりと腰を揺すりました。数回腰を揺すった後で、今度は両手を組んでみぞおちに当て、上体を前後に揺すったり、屈伸したりを繰り返し、背を屈めるようにして聞くに堪えない喘ぎ声を上げて、えずき始めました。
「おぇ、おぇ、げ~っ」
何度か喘ぎ声を上げた末、最後に老人は大きく前屈みになると、口からオレンジ色の物体をポリバケツの中に吐き出しました。
慌しくバケツに駆け寄って見ると、そこにはオレンジ色のピンポン玉が1個、胃液に塗れて、水にふわふわ浮かびながら、美しいフォルムを現わしていました。
ピンポン玉を口から吐き出した直後、老人はその場にうずくまって、激しく咳き込みました。私が思わず駆け寄り介抱すると、老人は苦しい息遣いの下から、
「こんなことを長年続けていると、ひどく胃を傷めてしまう。私の仲間たちはね、皆最後には血を吐いて、ばたばた倒れていったんだよ。仕事で体を傷めた上に、皆浴びるほど酒を飲んでいた。景気のいい時代だったからね。私がこの年まで達者でいられたのは、酒を飲まなかったおかげだろうと思っているよ。」
と苦笑いをしながら話してくれました。
できたてのピンポン玉を斜めに置いた板の上から転がすと、全く曲がることなく、真直ぐに転がりました。まさに神業。“幻の4つ星”は実在したのです。
ピンポン玉作りの実演をして見せてくれた後、老人は近所にある卓球場に案内してくれました。そこはX商会直営の卓球場だそうで、たくさんの小中学生が練習していました。
「ここはね、私が道楽でやっている卓球場でね、『こだま卓球クラブ』って言うんだけど、卓球のラリーを、打てば返る、呼べば答えるってことで、“こだま”に喩えて命名したんですよ」
と、名前の由来を嬉しそうに説明してくれました。
「どうして、そんなに優れた“幻の4つ星”が、廃れてしまったんでしょうか」
「結局、球筋が良過ぎたっていうことなのかねぇ。大陸の選手たちっていうのは、やっぱりパワーとスピードを追求するわけだよ。ところが日本人選手の本領は、どんなスポーツでもそうだけど、器用さでしょ。所詮パワーでは敵わないわけだからね。日本人選手の活躍に対するやっかみもあったかもしれんし、ミリ単位の微妙なボールコントロールができるピンポン玉なんて必要ないってことで、次第に国際大会からは締め出されちまったわけだな。それと、さっきも言ったように後継者不足。職人が無茶な生活の末にバタバタ倒れちまったんじゃあ、じきに先が見えちゃうからね」
老人は薄くなった頭を撫で回しながら話してくれました。一瞬、老人の表情に諦めにも似た淋しげな陰がよぎりました。
「でもね、この子らが大きくなった頃、ひょっとすると、また日本は黄金時代を迎えるような気がするんだよ。それまでは、死ねないね」
老人が自分自身に言い聞かせるように、頷きながら断固とした口調で言いました。ピンポン玉を打つ乾いた音がひっきりなしに辺りに響いています。少年たちは、ただ一心不乱にピンポン玉を目で追い、前後左右に跳躍しながらラケットを振り続けています。老人は、そんな少年たちを眼を細めて眺めていました。
そんな少年たちと老人の姿に心温まるものを感じ、卓球王国日本の復活を確信して、私はその町を後にしたのでした。(この項終わり)
2007年10月21日日曜日
驚異の産業技術 ②ピンポン玉の作り方 その2
大手スポーツ品メーカーの広報担当氏に教えてもらった住所には、外壁モルタル2階建ての薄汚れた建物があり、「卓球用品製造・卸 X商会」と書かれたくすんだ木製看板がかかっていたことで、辛うじてそこが捜し求めていた場所であることがわかりました。
ガタついたガラス戸を開けると、そこはガランとした土間で、貨物用の自転車が1台と植木鉢、それから小さなショーケースがありました。ショーケースの中には、卓球のラケットとラバーがいくつかと、紙箱に入ったピンポン玉などが雑然と置かれていて、そのいずれもがうっすらと埃をかぶっています。
土間の中央まで入って、店の奥に向かって声をかけると、間延びのした返事があって、しばらくしてから度の強そうなメガネをかけた、年の頃なら70歳代後半から80歳代くらいに見える、頭の禿げた小柄な男性が、ノレンの陰から顔を覗かせました。心なしか、警戒するような疑り深い上目遣いの視線を感じます。 私は相手の警戒心を解こうと、努めて明るい声色でおそるおそる声をかけました。
「あのぉ…ピンポン玉の作り方を詳しく聞きたいって言ったら、こちらを紹介されまして…」
あの広報担当氏の名前を出しながら話を切り出すと、相手はノレンの陰から全身を現して、意外に愛想よく、「あぁ、そんなことなら造作もないこと…」 と、私に椅子をすすめ、セルロイド板から打ち出しでピンポン玉を作る方法を話し出そうとします。私が途中で話を遮って、
「いや、そうではなく、私が聞きたいのは“幻の4つ星”の作り方です」
と言うと、老人は怪訝そうな顔つきで私の顔を見つめて聞き返しました。
「幻の4つ星…だって?」
ふいに老人の顔に朱が差したように上気していくのがわかりました。老人の目はカッと見開かれ、殺気という言葉は適当ではないかもしれませんが、私の本心を探り出すかのように、じっと私の目を覗き込んでいます。が、しばらくして老人の全身からふっと緊張感が消えたのがわかりました。
「あんたもモノ好きと言うか、今どき珍しい人だ。“幻の4つ星”の話をワシから聞き出そうなんて…よかろう、話してあげよう。なに、もうワシもそう長くない。ワシが死んだら、このことを知るものもいなくなる。死ぬ前に、あんたのような変わり者に聞かせておくのも、悪くない」
老人は、うつむき加減に椅子に腰かけ、タバコに火をつけて、煙を深々と吸いこむと、おもむろに“幻の4つ星”をめぐる「伝説」を語り始めました。(以下、次回に続く)
ガタついたガラス戸を開けると、そこはガランとした土間で、貨物用の自転車が1台と植木鉢、それから小さなショーケースがありました。ショーケースの中には、卓球のラケットとラバーがいくつかと、紙箱に入ったピンポン玉などが雑然と置かれていて、そのいずれもがうっすらと埃をかぶっています。
土間の中央まで入って、店の奥に向かって声をかけると、間延びのした返事があって、しばらくしてから度の強そうなメガネをかけた、年の頃なら70歳代後半から80歳代くらいに見える、頭の禿げた小柄な男性が、ノレンの陰から顔を覗かせました。心なしか、警戒するような疑り深い上目遣いの視線を感じます。 私は相手の警戒心を解こうと、努めて明るい声色でおそるおそる声をかけました。
「あのぉ…ピンポン玉の作り方を詳しく聞きたいって言ったら、こちらを紹介されまして…」
あの広報担当氏の名前を出しながら話を切り出すと、相手はノレンの陰から全身を現して、意外に愛想よく、「あぁ、そんなことなら造作もないこと…」 と、私に椅子をすすめ、セルロイド板から打ち出しでピンポン玉を作る方法を話し出そうとします。私が途中で話を遮って、
「いや、そうではなく、私が聞きたいのは“幻の4つ星”の作り方です」
と言うと、老人は怪訝そうな顔つきで私の顔を見つめて聞き返しました。
「幻の4つ星…だって?」
ふいに老人の顔に朱が差したように上気していくのがわかりました。老人の目はカッと見開かれ、殺気という言葉は適当ではないかもしれませんが、私の本心を探り出すかのように、じっと私の目を覗き込んでいます。が、しばらくして老人の全身からふっと緊張感が消えたのがわかりました。
「あんたもモノ好きと言うか、今どき珍しい人だ。“幻の4つ星”の話をワシから聞き出そうなんて…よかろう、話してあげよう。なに、もうワシもそう長くない。ワシが死んだら、このことを知るものもいなくなる。死ぬ前に、あんたのような変わり者に聞かせておくのも、悪くない」
老人は、うつむき加減に椅子に腰かけ、タバコに火をつけて、煙を深々と吸いこむと、おもむろに“幻の4つ星”をめぐる「伝説」を語り始めました。(以下、次回に続く)
2007年10月19日金曜日
驚異の産業技術 ②ピンポン玉の作り方
私の職場の会議室には、なぜか卓球台があります。その理由は…聞かないでください。
つい先日のことです。早朝から始まった会議が昼過ぎにようやく終わり、疲れ果てた頭を抱えて、しばらくボーッとしているうちに、私一人が薄暗い会議室に取り残されていました。時計を見ると、もう12時半をまわっています。午後2時には得意先を訪問することになっています。急いで昼食を済ませ、準備をしなければなりません。私は軽いため息をついて立ち上がりました。
書類の束を小脇に抱え、重い足取りでよろよろと出口に向かって歩いていると、「カサッ」という乾いた音とともに、靴のつま先で何か軽い物を蹴飛ばしたような感触がありました。ふと見下ろすと、床の上には割れて口の開いたピンポン玉が1個、転がっていました。
私は何気なく、そのピンポン玉を拾い上げました。オレンジ色のピンポン玉は口が開いた上にひしゃげていて、まるで地面に落ちたホオズキの実のように見えました。中はもちろん空っぽです。0コンマ何ミリかの薄いプラスティック(なのでしょうか?)が微妙なバランスを保って、中空の球形を形作っているのがわかります。仔細に見ると、ピンポン玉には継ぎ目があって、度重なる使用の末、劣化して、そこからヒビが入って割れたもののようでした。
ふだんなら、部屋の隅のゴミ箱にピンポン玉を放り込んで、それで終わりにしていたでしょう。しかし、会議でくたくたになった私の頭は、この壊れたピンポン玉に対して、感傷あるいは愛おしさとでも言うのでしょうか、一言では言い尽くせない複雑な感情を抱いてしまったかのようでした。その瞬間、天啓のように私の脳裡を素朴な疑問がかすめたのです。
「ピンポン玉って、いったい誰がどうやって作っているのだろう?」
私は、持ち前の好奇心から早速調査を開始することにしました。即刻、午後の訪問予定をキャンセルし、1週間の有給休暇を取りました。足早にオフィスを後にする私の背中越しに、課長の悲鳴にも似た怒号が聞こえましたが、意に介せず、私は再び真実を捜し求める旅に出ることとなったのです。
調査は当初、意外なほど簡単に終わりました。某大手スポーツ用品メーカーの広報担当に面会を求めて尋ねたところ、あっさり教えてもらえたのです。
それは…。
原料のセルロイド板を円形にくりぬき、加熱しながら半球状に加工、その半球状のものを接合して球形にする。その後、乾燥させてから表面を研磨して仕上げた末、検品して出荷するまでに数ヶ月を要するというものでした。
驚いたのは機械を使用するにもかかわらず、完全な球体を作ることは難しく、それを基準にして4つの等級(等級は★の数で表わされ、最下級の無印から最高級は★★★なのだそうです)がつけられているという点でした。つまり、最初から意図的に様々な等級の品を作っているのではなく、完成品をふるいにかけた結果、高級品や廉価品が生まれているということなのです。
担当者は、白髪頭に黒ぶちメガネをかけた痩せぎすの、もう定年真近と思われる温厚で誠実そうな紳士でした。忙しい身にも関わらず、懇切丁寧に私の質問に答えてくれ、おかげで短い時間ではありましたが、十分な手ごたえを感じることができました。
「いやぁ、今日は、いろいろ教えていただいて、すっかりお世話になりました。ピンポン玉に★印で等級がついていたなんて初めて知りましたよ。星3つなんてミシュラン並みですね」
私は、担当者に冗談を交えて礼を言いながら、ソファから腰を浮かせかけました。私をドアまで送ろうと、すでに立ち上がっていた担当者は、背中を向けながら、ボソッと一言。
「まっ、そうは言っても、昔は4つ星まであったんだがねぇ…」
何気なく呟いたベテラン担当者の独り言を私は聞き逃しませんでした。
「えっ?今何ておっしゃいました?確か、4つ星と…」
いったん浮かせかけた腰を再びソファに下ろして、私は胸ポケットから、さっきしまったばかりの手帳を取り出しました。
「あぁ、聞こえてしまいましたか…。えぇ、4つ星。“幻の4つ星”のことですよ」
独り言を聞きとがめられたことに特に悪びれる風もなく、担当者は気軽に受け答えしてくれます。
「幻の4つ星って…何ですか」
「ご存知ありませんか。う~ん、まぁ、無理もないですね。“幻の4つ星”を知ってるなんてのは、当社でも社長、専務と、あと2、3人ですからね。すっかり古い話になってしまいました…」
担当者は遠い目をしながら語り始めました。
かつて一世を風靡した日本卓球の黄金時代、そしてそれに寄り添うように、世界最高水準のピンポン玉を手作業で作り出していた男たちのいたことを。当時、彼らの作り出したピンポン玉は、世界の技術水準を軽く凌駕し、そのあまりの精巧さに★を4つ付けることが許されていたといいます。それがベテラン担当者の言う「幻の4つ星」なのです。しかし、世界の卓球界における日本の凋落とともに、いつしか男たちは姿を消し、伝説だけが残ったと言います。
「い、いったい何者なんですか?その男たちっていうのは…今でも、その技術は継承されているんですか?」
私の矢継ぎ早やの質問を軽くいなすように、担当者はただ、ある場所を教えてくれただけでした。
「ここへ行ってごらんなさい。ただし、彼が消息を絶ってから二十年近くが過ぎています。今も生きているかどうかはわかりません。生きているとしても、かなりの年齢です。また、先方が会ってくれるかどうかもわかりません。何せ、世捨て人同然の身の上ですから…」
そう語る担当者は、急に十いくつも老け込んだように見えました。
私は、懇ろに礼を言って某大手スポーツメーカーを辞去し、教えられた場所を目指しました。
日はすでに傾き始めていました。いくつか電車とバスを乗り継いだ末に、ようやく日暮れ前にたどり着いた場所は、関東近郊にある、旧国道沿いの寂れ果てた商店街の中の、とある建物でした。
ここで出会った人物の口から、想像を超えた意外な真実が語られるとともに、私は信じられない光景を目のあたりにすることとなったのです。(以下、次回に続く)
つい先日のことです。早朝から始まった会議が昼過ぎにようやく終わり、疲れ果てた頭を抱えて、しばらくボーッとしているうちに、私一人が薄暗い会議室に取り残されていました。時計を見ると、もう12時半をまわっています。午後2時には得意先を訪問することになっています。急いで昼食を済ませ、準備をしなければなりません。私は軽いため息をついて立ち上がりました。
書類の束を小脇に抱え、重い足取りでよろよろと出口に向かって歩いていると、「カサッ」という乾いた音とともに、靴のつま先で何か軽い物を蹴飛ばしたような感触がありました。ふと見下ろすと、床の上には割れて口の開いたピンポン玉が1個、転がっていました。
私は何気なく、そのピンポン玉を拾い上げました。オレンジ色のピンポン玉は口が開いた上にひしゃげていて、まるで地面に落ちたホオズキの実のように見えました。中はもちろん空っぽです。0コンマ何ミリかの薄いプラスティック(なのでしょうか?)が微妙なバランスを保って、中空の球形を形作っているのがわかります。仔細に見ると、ピンポン玉には継ぎ目があって、度重なる使用の末、劣化して、そこからヒビが入って割れたもののようでした。
ふだんなら、部屋の隅のゴミ箱にピンポン玉を放り込んで、それで終わりにしていたでしょう。しかし、会議でくたくたになった私の頭は、この壊れたピンポン玉に対して、感傷あるいは愛おしさとでも言うのでしょうか、一言では言い尽くせない複雑な感情を抱いてしまったかのようでした。その瞬間、天啓のように私の脳裡を素朴な疑問がかすめたのです。
「ピンポン玉って、いったい誰がどうやって作っているのだろう?」
私は、持ち前の好奇心から早速調査を開始することにしました。即刻、午後の訪問予定をキャンセルし、1週間の有給休暇を取りました。足早にオフィスを後にする私の背中越しに、課長の悲鳴にも似た怒号が聞こえましたが、意に介せず、私は再び真実を捜し求める旅に出ることとなったのです。
調査は当初、意外なほど簡単に終わりました。某大手スポーツ用品メーカーの広報担当に面会を求めて尋ねたところ、あっさり教えてもらえたのです。
それは…。
原料のセルロイド板を円形にくりぬき、加熱しながら半球状に加工、その半球状のものを接合して球形にする。その後、乾燥させてから表面を研磨して仕上げた末、検品して出荷するまでに数ヶ月を要するというものでした。
驚いたのは機械を使用するにもかかわらず、完全な球体を作ることは難しく、それを基準にして4つの等級(等級は★の数で表わされ、最下級の無印から最高級は★★★なのだそうです)がつけられているという点でした。つまり、最初から意図的に様々な等級の品を作っているのではなく、完成品をふるいにかけた結果、高級品や廉価品が生まれているということなのです。
担当者は、白髪頭に黒ぶちメガネをかけた痩せぎすの、もう定年真近と思われる温厚で誠実そうな紳士でした。忙しい身にも関わらず、懇切丁寧に私の質問に答えてくれ、おかげで短い時間ではありましたが、十分な手ごたえを感じることができました。
「いやぁ、今日は、いろいろ教えていただいて、すっかりお世話になりました。ピンポン玉に★印で等級がついていたなんて初めて知りましたよ。星3つなんてミシュラン並みですね」
私は、担当者に冗談を交えて礼を言いながら、ソファから腰を浮かせかけました。私をドアまで送ろうと、すでに立ち上がっていた担当者は、背中を向けながら、ボソッと一言。
「まっ、そうは言っても、昔は4つ星まであったんだがねぇ…」
何気なく呟いたベテラン担当者の独り言を私は聞き逃しませんでした。
「えっ?今何ておっしゃいました?確か、4つ星と…」
いったん浮かせかけた腰を再びソファに下ろして、私は胸ポケットから、さっきしまったばかりの手帳を取り出しました。
「あぁ、聞こえてしまいましたか…。えぇ、4つ星。“幻の4つ星”のことですよ」
独り言を聞きとがめられたことに特に悪びれる風もなく、担当者は気軽に受け答えしてくれます。
「幻の4つ星って…何ですか」
「ご存知ありませんか。う~ん、まぁ、無理もないですね。“幻の4つ星”を知ってるなんてのは、当社でも社長、専務と、あと2、3人ですからね。すっかり古い話になってしまいました…」
担当者は遠い目をしながら語り始めました。
かつて一世を風靡した日本卓球の黄金時代、そしてそれに寄り添うように、世界最高水準のピンポン玉を手作業で作り出していた男たちのいたことを。当時、彼らの作り出したピンポン玉は、世界の技術水準を軽く凌駕し、そのあまりの精巧さに★を4つ付けることが許されていたといいます。それがベテラン担当者の言う「幻の4つ星」なのです。しかし、世界の卓球界における日本の凋落とともに、いつしか男たちは姿を消し、伝説だけが残ったと言います。
「い、いったい何者なんですか?その男たちっていうのは…今でも、その技術は継承されているんですか?」
私の矢継ぎ早やの質問を軽くいなすように、担当者はただ、ある場所を教えてくれただけでした。
「ここへ行ってごらんなさい。ただし、彼が消息を絶ってから二十年近くが過ぎています。今も生きているかどうかはわかりません。生きているとしても、かなりの年齢です。また、先方が会ってくれるかどうかもわかりません。何せ、世捨て人同然の身の上ですから…」
そう語る担当者は、急に十いくつも老け込んだように見えました。
私は、懇ろに礼を言って某大手スポーツメーカーを辞去し、教えられた場所を目指しました。
日はすでに傾き始めていました。いくつか電車とバスを乗り継いだ末に、ようやく日暮れ前にたどり着いた場所は、関東近郊にある、旧国道沿いの寂れ果てた商店街の中の、とある建物でした。
ここで出会った人物の口から、想像を超えた意外な真実が語られるとともに、私は信じられない光景を目のあたりにすることとなったのです。(以下、次回に続く)
2007年10月7日日曜日
驚異の産業技術 ①サンドバッグの作り方 その3
小学校の体育館程度の広さの工場の建物の中には、年齢は様々ですが、いずれも工場長と同様に角刈り、浅黒く日焼けした肌、そして筋骨隆々たる数十人の男達が柔道着風の作業着を着て――と言っても、すでに上衣は脱いで上半身裸で、そして黒帯をきりりと締めて――整列していました。今までウォーミングアップでもしていたのか、全身にうっすら汗までかいています。「今日から現場に入ってくれることになった○○君だ。みんな、面倒みてやってくれ!」と工場長が紹介すると、男達全員が、両腕でガッツポーズのような構えをしながら「ウッス!」と一斉に答えて、私を迎え入れてくれました。
「よぉーし!挨拶が終わったところで、本日の操業開始!本日の製造目標はサンドバッグ、Lサイズ10個、Mサイズ20個だぁ。納期まで間がないぞォ!気合入れていけぇ!」
「ウッス!」
男達は整然と持ち場に着き、その日の作業が始まりました。
工場の中央には上質の革製の袋が下3分の1ほどを残してめくり下ろされた形で置かれています。そこに2人の男が、1人は大きなトンカチを持ち、もう1人は大きなダンボール箱の傍らで両手いっぱいの布切れを持ち、片膝をついて構えています。
その回りを数十人のマッチョな男達が同心円状に取り巻き、中腰で脚を開いて構えています。そして、工場の隅には直径2mはあろうかという巨大な和太鼓が置かれており、向こう鉢巻をした1人の男がバチを持って構えています。そうか、あの和太鼓みたいな音はこれだったのか…。
男達はいずれも無言で、緊張した面持ちで待機しています。静寂の中、次第に緊張感が高まるとともに、男達の肌が紅潮し、大粒の汗が噴き出して身体を伝って流れ落ちていくのがわかります。
1分、2分、やがて、その場の雰囲気が臨界点にまで達したそのとき、「せいっ!」という掛け声とともに、太鼓の音が「ど~ん」と大きく響きました。
「ど~ん、ど~ん、ど~ん、ど~ん、ど~ん…」
太鼓の音は次第に間隔が短くなり、最後に1回、大きく「ど~ん!」と鳴り響いたかと思うと、全員が一斉に「せいっ!」と叫んで、再び太鼓の音が「ど~ん、ど~ん」と一定のリズムを刻んで鳴り始めました。
工場中央で構えていた2人の男達は、太鼓の音に合わせ、まるで餅つきをするかのように、革袋の中に布切れを詰め込み、大きなトンカチで突き固めるという作業を始めています。
男達はと見ると、全員がその太鼓のリズムに合わせて、「うりゃあ!」「せいっ!」と交互に掛け声をかけながら、左右の拳を前に突き出し、一糸乱れぬ動きで正拳突き(というのでしょうか)を始めました。「これだ!これだったんだ!こうでなければ、あのサンドバッグの中に隙間なく布切れを詰めることなどできるはずがない!」
私は驚きと感動を禁じ得ませんでした。それは何と美しく、驚きに満ちた光景だったでしょう。男達の眼差しは真剣そのものです。たくましい胸は汗に輝き、拳を突き出すたびに両の腕から汗が飛び散ります。そして、男達の輝く汗は、彼らの中心にあるサンドバッグに向かって放出されているように見えました。
気がつくと、工場長が私の横に立って、「これが、わが社が世界に誇る最高の技術だ。男達の血と汗と涙が、サンドバッグに生命を吹き込むのだ。これがある限り、世界中のどのメーカーのサンドバッグも、わが社の製品には遠く及ばない」と熱く語ってくれました。心なしか、工場長の目は潤んでいるように見えました。
「さぁ、キミも行くのだ!彼らとともに、世界最高のサンドバッグを作るのだ!」
工場長に背中を押され、私も男達の中に立ち混じり、いつしか陶然としながら正拳突きを始めていました。
その後私は、1週間の工場勤務を無事勤め上げ、1か月分のバイト代をもらってQ社を後にしました。給料袋の中には、口止め料の意味もあったのでしょうか、思いの外たくさんのお金が入っていたことを付記しておかねばなりません。また、毎日数時間にわたる工場の仕事のおかげで、心なしか胸板が厚くなったような気がします。
最終日に退勤する際、何も知らない工場長は、「キミは、なかなかいいモノを持っている。よかったら、これからも一緒に働かないか」と熱心に誘ってくれましたが、丁重にお断りしたのは言うまでもありません。(この項終わり)
「よぉーし!挨拶が終わったところで、本日の操業開始!本日の製造目標はサンドバッグ、Lサイズ10個、Mサイズ20個だぁ。納期まで間がないぞォ!気合入れていけぇ!」
「ウッス!」
男達は整然と持ち場に着き、その日の作業が始まりました。
工場の中央には上質の革製の袋が下3分の1ほどを残してめくり下ろされた形で置かれています。そこに2人の男が、1人は大きなトンカチを持ち、もう1人は大きなダンボール箱の傍らで両手いっぱいの布切れを持ち、片膝をついて構えています。
その回りを数十人のマッチョな男達が同心円状に取り巻き、中腰で脚を開いて構えています。そして、工場の隅には直径2mはあろうかという巨大な和太鼓が置かれており、向こう鉢巻をした1人の男がバチを持って構えています。そうか、あの和太鼓みたいな音はこれだったのか…。
男達はいずれも無言で、緊張した面持ちで待機しています。静寂の中、次第に緊張感が高まるとともに、男達の肌が紅潮し、大粒の汗が噴き出して身体を伝って流れ落ちていくのがわかります。
1分、2分、やがて、その場の雰囲気が臨界点にまで達したそのとき、「せいっ!」という掛け声とともに、太鼓の音が「ど~ん」と大きく響きました。
「ど~ん、ど~ん、ど~ん、ど~ん、ど~ん…」
太鼓の音は次第に間隔が短くなり、最後に1回、大きく「ど~ん!」と鳴り響いたかと思うと、全員が一斉に「せいっ!」と叫んで、再び太鼓の音が「ど~ん、ど~ん」と一定のリズムを刻んで鳴り始めました。
工場中央で構えていた2人の男達は、太鼓の音に合わせ、まるで餅つきをするかのように、革袋の中に布切れを詰め込み、大きなトンカチで突き固めるという作業を始めています。
男達はと見ると、全員がその太鼓のリズムに合わせて、「うりゃあ!」「せいっ!」と交互に掛け声をかけながら、左右の拳を前に突き出し、一糸乱れぬ動きで正拳突き(というのでしょうか)を始めました。「これだ!これだったんだ!こうでなければ、あのサンドバッグの中に隙間なく布切れを詰めることなどできるはずがない!」
私は驚きと感動を禁じ得ませんでした。それは何と美しく、驚きに満ちた光景だったでしょう。男達の眼差しは真剣そのものです。たくましい胸は汗に輝き、拳を突き出すたびに両の腕から汗が飛び散ります。そして、男達の輝く汗は、彼らの中心にあるサンドバッグに向かって放出されているように見えました。
気がつくと、工場長が私の横に立って、「これが、わが社が世界に誇る最高の技術だ。男達の血と汗と涙が、サンドバッグに生命を吹き込むのだ。これがある限り、世界中のどのメーカーのサンドバッグも、わが社の製品には遠く及ばない」と熱く語ってくれました。心なしか、工場長の目は潤んでいるように見えました。
「さぁ、キミも行くのだ!彼らとともに、世界最高のサンドバッグを作るのだ!」
工場長に背中を押され、私も男達の中に立ち混じり、いつしか陶然としながら正拳突きを始めていました。
その後私は、1週間の工場勤務を無事勤め上げ、1か月分のバイト代をもらってQ社を後にしました。給料袋の中には、口止め料の意味もあったのでしょうか、思いの外たくさんのお金が入っていたことを付記しておかねばなりません。また、毎日数時間にわたる工場の仕事のおかげで、心なしか胸板が厚くなったような気がします。
最終日に退勤する際、何も知らない工場長は、「キミは、なかなかいいモノを持っている。よかったら、これからも一緒に働かないか」と熱心に誘ってくれましたが、丁重にお断りしたのは言うまでもありません。(この項終わり)
驚異の産業技術 ①サンドバッグの作り方 その2
Q社の詳しい所在地については、ここで明らかにすることはできませんが、思ったよりも狭い敷地の中に、総務・営業部門の入った2階建ての社屋と、小学校の体育館程度の大きさの倉庫、そしてこれらの2つの建物とやや距離を置くようにして建てられた、倉庫と同程度の規模の建物が並んでいました。
いずれにせよ、ここが世界的なメーカーの社屋かと思うほど、こじんまりとしたものでした。しかし、敷地内へ出入りする際の手続きは厳重を極め、身分証を提示した後、入念なボディチェックを経て、ようやく出勤・退勤が許可されるというものものしさでした。
最初の1週間は、毎日、原材料・製品の積み下ろしといった単調な倉庫業務が主で、工場へ近づくことさえできません。遠くから工場の建物を見ることができるだけです。
しかし、気になることはありました。就業時間中、工場の方角から、一定のリズムで和太鼓を叩くような、腹の底に響く音が聞こえてくるのです。なぜ、そんな音が工場から聞こえてくるのか?音の正体は何なのか?
気にはなっていましたが、うっかり誰かに尋ねて怪しまれては、潜入調査の意味がありません。私は、黙々と仕事を続けながらチャンスをうかがっていました。
それから何事も進展しないままに、2週間があっという間に過ぎました。
「このまま何もわからぬままに、期限切れを迎えてしまうのか…」
私はあせりましたが、平静を装って仕事を続けるしかありませんでした。
しかし、ようやくチャンスが巡ってきました。あと1週間で雇用期間が切れるという日、たまたま工場の従業員が病欠で人手が足りなくなったとのことで、急遽バイトの誰かを生産部門へ臨時に配属するということになったのです。日頃の勤務態度がよかったのを買われたのでしょう、私は生産部門に配属され、いよいよ工場の建物に入ることになりました。
工場長は、がっちりした体格で、浅黒く日焼けした顔に角刈りのよく似合う、精悍な顔立が印象的な、40年配の男でした。
その日の朝、工場内の事務所で、私は、ここでこれから眼にすることを決して他言しないことを約束させられてから、「ほれ、仕事着…」と言って、柔道着のようなものをひとまとめにして渡されました。怪訝な表情の私をよそに、工場長は「ちょっと汗臭いかもしれないけどな。今日は洗濯が間に合わなくって…」と言いながら、先に外へ出ました。
訳のわからない展開に首をひねりながらも、更衣室で着替えを済ませて外に出ると、工場長はすでに柔道着のような仕事着に着替えていました。帯は黒帯です。「キミは初心者だから、白帯ね」、けろっとした顔で工場長は言いました。私は、いよいよ訳がわからなくなりました。
そして、工場長に伴われ、重い鉄の扉を開けて工場に一歩入った瞬間、「こ、これは…」信じられない光景を目の当たりにして、私は思わず絶句しました。(以下、次回に続く)
いずれにせよ、ここが世界的なメーカーの社屋かと思うほど、こじんまりとしたものでした。しかし、敷地内へ出入りする際の手続きは厳重を極め、身分証を提示した後、入念なボディチェックを経て、ようやく出勤・退勤が許可されるというものものしさでした。
最初の1週間は、毎日、原材料・製品の積み下ろしといった単調な倉庫業務が主で、工場へ近づくことさえできません。遠くから工場の建物を見ることができるだけです。
しかし、気になることはありました。就業時間中、工場の方角から、一定のリズムで和太鼓を叩くような、腹の底に響く音が聞こえてくるのです。なぜ、そんな音が工場から聞こえてくるのか?音の正体は何なのか?
気にはなっていましたが、うっかり誰かに尋ねて怪しまれては、潜入調査の意味がありません。私は、黙々と仕事を続けながらチャンスをうかがっていました。
それから何事も進展しないままに、2週間があっという間に過ぎました。
「このまま何もわからぬままに、期限切れを迎えてしまうのか…」
私はあせりましたが、平静を装って仕事を続けるしかありませんでした。
しかし、ようやくチャンスが巡ってきました。あと1週間で雇用期間が切れるという日、たまたま工場の従業員が病欠で人手が足りなくなったとのことで、急遽バイトの誰かを生産部門へ臨時に配属するということになったのです。日頃の勤務態度がよかったのを買われたのでしょう、私は生産部門に配属され、いよいよ工場の建物に入ることになりました。
工場長は、がっちりした体格で、浅黒く日焼けした顔に角刈りのよく似合う、精悍な顔立が印象的な、40年配の男でした。
その日の朝、工場内の事務所で、私は、ここでこれから眼にすることを決して他言しないことを約束させられてから、「ほれ、仕事着…」と言って、柔道着のようなものをひとまとめにして渡されました。怪訝な表情の私をよそに、工場長は「ちょっと汗臭いかもしれないけどな。今日は洗濯が間に合わなくって…」と言いながら、先に外へ出ました。
訳のわからない展開に首をひねりながらも、更衣室で着替えを済ませて外に出ると、工場長はすでに柔道着のような仕事着に着替えていました。帯は黒帯です。「キミは初心者だから、白帯ね」、けろっとした顔で工場長は言いました。私は、いよいよ訳がわからなくなりました。
そして、工場長に伴われ、重い鉄の扉を開けて工場に一歩入った瞬間、「こ、これは…」信じられない光景を目の当たりにして、私は思わず絶句しました。(以下、次回に続く)
驚異の産業技術 ①サンドバッグの作り方
私の職場の会議室には、なぜかサンドバッグがあります。その理由は…聞かないでください。
先日のことですが、ふとしたことからサンドバッグの口が開いて、中身がはみ出してしまったことがありました。
サンドバッグの中身って、何が入っているかご存じですか? 「サンドバッグ」というぐらいだから、砂が入っているものとばかり思っていました が、実のところ中に入っていたのは布切れ――トレーニングウェア等に使われている伸縮性の――でした。
で、そのはみ出してしまった布切れをサンドバッグの中に戻そうとしたのですが、これが何とも入らない。力まかせにねじ込んでみても、伸縮性のある布切れに、やんわりと押し戻されて詰め込むことができないのです。
あまりのことに困り果てて、サンドバッグの口のファスナーを全開して中をのぞいてみると、いったいどうやって詰め込んだものか、これ以上はないというぐらい、ぎゅうぎゅうに布切れが詰まっています。
サンドバッグの重量自体は40~50㎏もあるでしょうか。軽い布切れをこの重量になるまで詰め込むということは、相当な量の布切れがサンドバッグの中に圧縮されて入っているものと思われます。
はて?サンドバッグって、誰がどのようにして作っているだろう。ふと疑問を覚えた私は、持ち前の好奇心から早速調査を開始しました。
調査には意外に手間がかかりました。一般には知られていないことですが、格闘技という精神性の高いスポーツと密接な関係を持つ、この業界は東洋的な神秘主義、秘密主義に彩られた閉鎖的な世界です。私は伝手を頼って、アルバイトを装い業界内に潜入することにしました。
潜入先は、わが国が世界に誇るサンドバッグの一流メーカーQ社、とだけ申し上げておきましょう。もし企業秘密を洩らしたことがQ社側に察知されると、私の身が危険にさらされるかもしれないので、これ以上のことは口外できません。
そして、1ヶ月にわたる潜入調査の結果、想像を超えた意外な真実がわかったのです。(以下、次回に続く)
先日のことですが、ふとしたことからサンドバッグの口が開いて、中身がはみ出してしまったことがありました。
サンドバッグの中身って、何が入っているかご存じですか? 「サンドバッグ」というぐらいだから、砂が入っているものとばかり思っていました が、実のところ中に入っていたのは布切れ――トレーニングウェア等に使われている伸縮性の――でした。
で、そのはみ出してしまった布切れをサンドバッグの中に戻そうとしたのですが、これが何とも入らない。力まかせにねじ込んでみても、伸縮性のある布切れに、やんわりと押し戻されて詰め込むことができないのです。
あまりのことに困り果てて、サンドバッグの口のファスナーを全開して中をのぞいてみると、いったいどうやって詰め込んだものか、これ以上はないというぐらい、ぎゅうぎゅうに布切れが詰まっています。
サンドバッグの重量自体は40~50㎏もあるでしょうか。軽い布切れをこの重量になるまで詰め込むということは、相当な量の布切れがサンドバッグの中に圧縮されて入っているものと思われます。
はて?サンドバッグって、誰がどのようにして作っているだろう。ふと疑問を覚えた私は、持ち前の好奇心から早速調査を開始しました。
調査には意外に手間がかかりました。一般には知られていないことですが、格闘技という精神性の高いスポーツと密接な関係を持つ、この業界は東洋的な神秘主義、秘密主義に彩られた閉鎖的な世界です。私は伝手を頼って、アルバイトを装い業界内に潜入することにしました。
潜入先は、わが国が世界に誇るサンドバッグの一流メーカーQ社、とだけ申し上げておきましょう。もし企業秘密を洩らしたことがQ社側に察知されると、私の身が危険にさらされるかもしれないので、これ以上のことは口外できません。
そして、1ヶ月にわたる潜入調査の結果、想像を超えた意外な真実がわかったのです。(以下、次回に続く)
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